宮崎 あっち、こっち。

      景清廟  かげきよびょう

          宮崎市下北方町 Yahoo!マップ Googleマップ(航空写真)
 
景清廟 向こうに見えるのは「平和の塔」 景清廟
宮崎に伝わる景清伝説
平家の勇将であり、平家側から悪七兵衛景清と呼ばれ恐れられた景清については、各地に様々な伝承が残っ
ており、宮崎にも古くからその伝説が残っています。それによると、壽永四年、平家が壇の浦で敗れた後、頼朝は
景清の武勇を惜しんで自分の下に重く用いたいと思いますが、しかし景清はその申し出を断って、西国に流してく
れるようにと訴えます。文治二年十一月、景清は家臣の大野、黒岩、高妻、松半、山野、旧橋、重長、有半、土田
の諸氏を引き連れて日向に下り、下北方古城(宮崎市)に居城しました。その地に住み着いてのち、景清は深く神
仏に帰依し、下北方に名田(みょうでん)神社、帝釈寺(たいしゃくじ)、岩戸寺、浮之城、正光寺などを建立。静かな
余生を送りたいと考えましたが、源氏の隆盛を見聞することにより煩悶し続け、ついにはその苦しさから逃れるため
に、自分で自分の両眼をえぐって空に投げ、両眼は生目の地の松の木(目掛けの松)にまで飛んで行ったそうです。
現在、目の神様として知られている生目神社は、その景清の両眼を祭っているといわれます。自分に敵対する気が
ないことを悟った頼朝は景清を日向勾当(こうとう)とし、宮崎郡北方百町、南方百町、池内村百町、計三百町を与え
ます。
景清は若い頃、尾張熱田の地で遊女阿古屋なるものとなじみを重ね、人丸という娘をもうけましたが、女では戦の役
に立つまいというので、鎌倉の亀が江が谷の長者の家に預けました。人丸は成長したのち、父景清を慕って遠路はる
ばる日向の地に父親を探しに来て再会を果たします。その後、盲目の父に仕えていましたが、建永元年九月、父に
先立って、二十七歳の若さで逝去。人丸の墓石と伝えられる小標が、今も景清廟の一隅に残っています。
 宮崎で孤独の生活を続けていた景清は、そのうち霧島山の参詣を思いたち、真幸(えびの市)から登山しましたが、
その帰途、建保二年八月十五日、山中の池のほとりで病死します。享年六十二才。
遺骸を宮崎に持ち帰り、居住地であった下北方町に埋葬しました。その地が景清廟であるといわれています。


 景清は、本当に宮崎にやってきたのでしょうか、調べるほどに疑問点が出てきます。
 宮崎に伝わる伝説だけではなく、各地に様々な伝説が伝わっています。そのうえ、た
 くさんの創作に登場し、それらの話が混ぜこぜになり訳が分からなくなっています。
 しかし、様々な矛盾を孕んだ景清伝説ではありますが、景清の足跡をたどりながら
 後世の人々の想いや歴史を推理するのも楽しいものです。

 
勾当(こうとう)】
盲人に検校(けんぎょう)、勾当(こうとう)の官を賜った創めは光孝天皇仁和二年二月十七日、
時の皇太后の奏請によって近侍した盲人に賜ったものである。その後宇多天皇の朝に城一
検校が出てここに四官十六階の制度が定まり、南北朝の初め覚一検校が出て、更に七十三
刻に分ち、ここに初めて足利、徳川を通じて行われた四官十六階七十三刻の官制ができた。
四官とは検校・別当・勾当・座頭、十六階とは座頭に四席、勾当に八度、別当に三度、検校に
一度の階級があること、七十三刻とは更にそれを小分して全体を七十三階級にしたもの。
しかしそのもとは六十七刻で、それに職の名の六老を加えて七十三となる。
当時勾当の位は京都職屋敷の手をへて、久我大納言より授けられ、たやすく受けられるもの
でなく、従って地方において勾当の位は権勢ただならぬものであった。官位は、座頭・勾当・別
当・検校の四官であった。    Wikipediaより


【平景清】 たいらのかげきよ
 生年不詳 - 1196年(建久7年)
平安時代の武士。本名は藤原総七郎兵衛尉景清。
父の藤原忠清が平清盛に仕えていたため平氏を称したと伝えられており、「悪七兵衛」の異名を持つほど
勇猛であった。平安末期における源平の戦いにおいて活躍したが、壇ノ浦の合戦で敗れた後に捕られ、
預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれる。また戦国時代で尼子氏が本拠としていた、出雲国
の月山富田城を作り上げたといわれている。実在したとはいえ生涯に謎の多い人物であるため、各地に
色々な伝説が残されているが、いわゆる「平家の落人」として扱われる事は少ない。このためか各種の創
作において主人公としてよく取り上げられている。   Wikipediaより

 

景清公が使ったといわれる「硯石」 孝女、人丸姫の墓 景清公、父母の慰霊塔。

謡曲「景清」と父母の慰霊塔

 謡曲「景清」は、敗戦の老武者の悲しみ・怒り・誇りの起伏する感情を、親子の情愛を軸にして
創意された人情物である。剛勇の聞こえ高い平家の侍悪七兵衛景清は自ら盲目となって日向の
国宮崎に下り、信仰一筋の日々を送っていた。父を慕い遥々の海山を越えて鎌倉に住む娘人丸が
尋ねてきた。景清は今の我が身を恥じて名乗れずに苦しむが、里人の厚意で引き合わされる。
すがりつく我が子に、娘の不名誉を思い対面を拒んだ親心を語る。人丸の所望を受けて、三保の谷
の四郎と錣引きした屋島の合戦での武勇伝を語るうちに名残を惜しみつつ別れて行くという構想である。
鎌倉に預けられた娘人丸の生涯を父景清に仕えた孝心が父母を偲ぶ慰霊塔となったのであろう。
平家滅亡後の隠れた悲哀ではある。       
謡曲史跡保存会(敷地内看板より)
 

 
出世景清(しゅっせかげきよ)
近松門左衛門作の時代浄瑠璃。平家の遺臣である平景清を主人公とする五段構成からなってい
ます。平家滅亡後から始まり、平家の仇、源頼朝をつけねらう景清の隠密劇がテーマです。
幸若舞曲の『景清』を史劇的な作品に仕上げたもので、初演は貞享二年(1685年)の竹本座での上演。
それまで、宇治加賀丞に作品提供をしていた近松門左衛門は、この作品以後竹本義太夫のために作
品の執筆を行うようになります。
出世景清は浄瑠璃に革新をもたらした作品とみなされて、これ以前の浄瑠璃は古浄瑠璃と呼ばれます。
 

 
歌舞伎における、景清
平景清は、「平家物語」の中の登場人物の一人です。「平家物語」では中心的な人物としては描か
れていませんが、さまざまな伝説的なエピソードをもち、能などにも登場します。江戸時代の庶民
にとって、源氏に抵抗した景清は、「曽我物語」の曽我兄弟と同じくよく知られた人物で、歌舞伎に
もたびたび登場しています。歌舞伎では1732年(享保17年)に2代目市川團十郎が初めて演じたと
され、歌舞伎十八番の「関羽」「解脱」「鎌髭」にも、景清は登場します。
 源氏に捕らえられた景清は、洞窟の中の牢屋に入れられます。「敵からもらったものは食べたく
ない」と、景清は水さえ口にしませんでした。源氏の武将は、平家の宝のありかを聞き出そうとしま
すが、景清は答えません。そこで源氏の武将は、景清の妻と娘を牢の前に連れてきて責めます。
これを見て景清は、これまでずっと耐えてきた怒りを爆発させ、牢を破って大暴れします。この「牢
破り」の部分を荒事で演じます。
 現在の『景清』は、1984年(昭和59年)に12代目團十郎が上演したときの脚本です。
 
薬師如来堂 弘法大師堂 名田神社・摂社
敷地内にある、薬師如来堂 ・ 弘法大師堂 ・ 名田神社摂社。
 
 
帝釈寺 名田神社 名田神社
景清ゆかりの帝釈寺・名田神社。 帝釈寺前にある名田中池の向こうに小さく見えているのは平和台公園の「平和の塔」。
 
宮崎市下北方地区は、景清廟の近くに、神武天皇の宮跡として
知られる皇宮屋があり、また下北方古墳群もある歴史の街です。

 
藩境石。   従是北延岡領
 景清廟の敷地内にある「藩境石」





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