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市民の森 しみんのもり 日向神話みそぎ池の物語 |
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| 宮崎市阿波岐原産母128 Yahoo!マップ Googleマップ(航空写真) | |
![]() 市民の森 阿波岐原森林公園の一角を占める、宮崎市民の憩いの森。 宮崎市内の手軽に行ける森林浴スポットの一つ。 ハードなアウトドア派は物足りなさを感じるかもしれませんが、 ファミリーや身障者にも優しい環境の、バリアフリーな?森です。 (遊歩道のほとんどは舗装してあります。車椅子でも大丈夫。) 阿波岐原森林公園とは、市民の森を始め、宮崎市国際海浜エン トランスプラザ、四季折々の花が楽しめる フローランテ宮崎、県 管理施設のパークウエイや新別府公園、そして民間施設のシー ガイアリゾート等が含まれる広大な一帯を示します。市民の森は 東園、西園に別れる広大な敷地で面積29.3haを誇り、明治100 年記念事業の一環として昭和42年から整備され昭和46年10 月に開園しています。市民の森の東園に、「はなしょうぶ園」があ ります。広さ4,300u、160種類、20万本という、九州最大規模を 誇り、他にも梅が約220本、椿が約340本、さらにはあじさいに蓮 といった季節を通しての花々が楽しめる公園です。(入場無料) |
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| はなしょうぶ園 | |
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| 市民の森、はなしょうぶ園には160種類20万本の花菖蒲が植えられ、毎年5月〜6月の花の時期に 「花しょうぶまつり」が開催されます。まつり期間中は野点や琴の演奏などのイベントが開催されます。 (花菖蒲の見頃は例年5月中旬〜6月中旬頃、同時期に御池のスイレンも見頃を迎えます。) |
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| 市民の森・梅園 |
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| 例年1月下旬〜2月中旬には約220本の白梅・紅梅が咲き誇ります。 宮崎の梅の名所 |
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| 市民の森・椿園 |
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| 1月下旬から3月中旬にかけては、梅園の隣にある敷地4700平方メートルの椿園で約70種類・340本の ツバキが次々と咲き、市民の憩いの場所となっています。 |
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中村地平 文学碑 南方文学を提唱し「南方郵信」「長耳国漂流記」「義妹」「八年間」 など数多くの日本文学代表作品 風土記「日向」をのこし ふるさと 宮崎をこよなく愛した作家中村地平 昇天して十年 ここにその文学生命の永遠ならんことを祈念し 県内外の有志相 図り文学碑を建つ 昭和四十八年六月十九日 中村地平文学碑建設委員会 |
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市民の森レストハウス。 管理事務所 TEL:0985-39-7308 市民の森案内図(拡大画像) |
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| みそぎ御殿 みそぎ池の奥、松林を少し歩いたところにあります。奥に江田神社と通じる小道があります。 その途中に山崎エコアップ会の皆さんが整備されている、新しい「ホタルの里」があります。 |
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| 天照大神をはじめ、日本の神々の多くは宮崎出身です。国産みの神、イザナギが禊を おこないながら多くの神々を生み出したこの地こそが日本の原点なのかもしれません。 |
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![]() 市民の森・御池 (宮崎観光遺産) ![]() |
日本の古代神話に登場する神々は、非常に人間くさい感情豊かな神々 です。とても「神」と呼ばれる存在が持つとは思えない喜怒哀楽が激しい 感情の物語は、ギリシャ神話のドラマチックな神々にも通じるものがあり 、興味深いものを感じます。 ここ、御池(みそぎ池)は、そんな神々がたくさん生まれたところです。 それでは、神々の物語を少しご紹介いたしましょう。 日向神話・神々の世界 昔々、この世がはじまる前は何もなく、ただ、どろどろと渦巻きのように、 混沌とした宇宙が広がっているだけでした。 やがて、そこは“天”と“地”に分かれました。 かつて混沌としていた天地がようやく空けはじめた頃、天上界の高天原 (たかまがはら)に、天御中主神(アメノナカヌシノカミ)をはじめとする五神 が現れました。続いて神代七代と呼ばれる神々が誕生します。 そして最後に、男神・伊邪那岐命(イザナギノミコト)と女神・伊邪那美命 (イザナミノミコト)という一対の神が生まれました。彼らは天の浮橋に立 ち、混沌の中に矛を下ろしてかき混ぜました。そして引き上げた矛の先 から滴り落ちて固まったのがオノコロ島です。 【オノコロ島】(高千穂町) イザナギとイザナミが持つ「天の沼矛」の先からしたたり落ちたしずくが固 まってできたと伝えられる島で、二神が結婚式をあげたところとも言われ ています。毎年4月に行われる高千穂神社の春祭では、「浜くだり」のみこ しが出され、オノコロ島のまわりを3回まわってみそぎをされます。 |
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イザナギとイザナミは、高天原(たかまがはら)からオノコロ島に降り立つ と、さっそく大きな御殿を建立します。。 そしてある日二人っきりになるとおたがいの体をジロジロと見くらべました。 「私の体はこのようにつくられていますが、足りない部分があるようです」 とイザナミが言いました。 イザナギは 「私の体には反対にあまっているものがあります」 「では、足りない部分とあまっている部分をあわせて私たちの国をつくりま しょう」こうして、イザナギとイザナミはたくさんの島をつくりはじめました。 淡路の島、筑紫の島、壱岐の島、佐渡の島などです。これが大八島国 (おおやしまぐに)つまり日本列島です。 |
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彼ら二人は山の神や海の神など、多くの神をも産みました。 しかし最後に産んだ火の神である加具土命(カグツチノミコト)のせいで、 イザナミは死んでしまいます。あまりの悲しみに我を忘れたイザナギは 我が子である、加具土命を切って捨ててしまいます。切られたカグツチは 三つの石と化し、切った剣は十塚剣となりました。この十塚剣はその後 霧島山の土砂に埋まって所在が分からなくなりましたが、一羽の鳩が橘 の木の上を旋回するのに気付いた修行僧が木の下を掘ると、一点の曇り もない剣が土中の石鞘の中から現れたといいます。 【神石(かみいし)】(高崎町) 東霧島神社の境内にあり、イザナミの死をなげき悲しんだイザナギが、 火の神カグツチを「十握の剣(とつかのつるぎ)」で3つに切り分けた跡と伝 えられています。そのほかにも、イザナミの死を悲しんだイザナギの涙が 固まってできたものであるとか、人に害を与えていた魔物の石をイザナギ が3つに切り分けたとする説が残されています。 【東霧島(つまきりしま)神社】(高崎町) 霊峰高千穂峰をとりまく霧島六社権現の一つで、イザナギがカグツチを 斬った跡と伝えられています。その際用いた「十握の剣」はご神宝としてあ がめられています。参道を進むと故有谷(ゆやだに)という小池の中に「神石」 があり、そのほかにも鬼が一夜で造ったとされる「鬼岩階段」があります。 |
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![]() 松林の上に頭を覗かせているのはシェラトンリ ゾートホテル。古代と現代の不思議な対比。 |
失意のイザナギはイザナミを追って黄泉の国へむかいます。 「イザナミ…イザナミ、私のイザナミはどこにいる?」 イザナギはいっしょうけんめいにイザナミをさがしました。 そして、後姿のイザナミをようやく見つけると、こう言いました。 「いとしいイザナミよ。まだ国づくりは終わっていません。さあ、一緒に帰り ましょう」 すると、イザナミは答えました。 「私は、黄泉の国の食べ物を口にしてしまったので、帰ることができなくな ってしまいました。でも、あなたが、こうしてわざわざ迎えにきてくれたので、 この国の神に相談してみます。その間、決して私の姿を見ないでください」 イザナキは長い時間イザナミが出てくるのを待っていました。しかし、いくら 待っても出てきません。イザナギはとうとうがまんできずにイザナミのいる 御殿に入り、中をのぞいてしまいました。しかしそこで見たものは、余りにも おどろおどろしく変わり果てた妻の姿だったのです。約束を破ったイザナギ に怒ったイザナミが襲いかかってきます。イザナギは必死になって逃げ出し ました。にげだしたイザナギは日向の国に降り立ちます。 ようやく黄泉の国から戻ることができたイザナキは、イザナミに会いにいった ことを後悔します。 |
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![]() スイレンの見頃は4月中旬〜6月 ![]() 約2千本のスイレンの品種はセントルイス |
「黄泉の国で私の体は大変けがれてしまった。きれいに洗い清めなければ」 こういうと、イザナギは「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」に出かけ、 そこで“みそぎ”をします。まず、持ち物や身につけていた衣服を脱ぎ捨て ました。するとそれらの物から多くの神が生まれました。杖から生まれた神 帯から生まれた神。小物を入れる袋から生まれた神。衣から生まれた神な どです。裸になったイザナギは、チャポン…チャポンときれいな水の中へと 入っていくと、中に潜って体を洗いはじめました。するとどうでしょう。今度も たくさんの神が生まれたのです。イザナギの体からでた汚れから生まれた 神。水底で体をすすいだときに生まれた神。水中で体をすすいだときに生ま れた神。水面で体をすすいだときに生まれた神などです。 そして、体がすっかり綺麗になったイザナキが、最後に顔を洗ったときの事 です。左の目を洗うと天照大神(アマテラスオオミカミ)右の目を洗うと月読 命(ツクヨミノミコト)そして鼻を洗うと須佐之男命(スサノオノミコト)が生まれ ました。イザナギは、みそぎの最後に生まれた三人の神さまの誕生をとても 喜び、アマテラスには高天原(たかまがはら)を、ツクヨミには夜を、スサノオ には海を、それぞれ治めるよう告げたのでした。 |
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![]() ![]() ミシシッピーアカミミガメ |
古事記の記述によると、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(日本書紀 では檍原と記されている)に到り坐して、禊ぎ祓ひたまひき」とあります。 つまりこの場所こそが、現在の宮崎市の一ッ葉海岸であり、市民の森に 「みそぎ池」(御池)があります。 「筑紫」は九州全体をさし「小戸」は水門を意味します。「橘」「小戸」「阿波 岐原」「檍」は現在でも宮崎市内の地名として残っています。 【住吉神社】(宮崎市) イザナキのみそぎから生まれたウワツツノオ、ナカツツノオ、ソコツツノオ の三神を祀っています。全国に2千あまりある住吉神社のなかでも由緒 ある古社として知られ、昔からおだやかな、航海の安全の神としてあがめ られています。 【小戸神社】(宮崎市) イザナギを祀り、江田神社、住吉神社とともに、イザナキのみそぎの神話 にまつわる神社です。昔から海の神、航海の神としてあがめられています。 「小戸」とは狭い水門や港を意味する言葉で、当神社も最初は宮崎市の 大淀川河口にありましたが、現在は鶴島町に移転しています。 |
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| 我々日本人の遠祖となる天照大神は、太陽神とも呼ばれて包容力と慈愛に満ちた神です。しかしその弟である須佐之男命 は様々な騒ぎを引き起こす「荒ぶる神」と恐れられ、高天原でも多くの騒ぎを起こす、困った神でした。それにとうとう我慢が ならなくなった天照大神は「天石窟に入りまして、磐戸を閉じて幽り居しぬ(日本書紀)」。つまり天岩戸に閉じこもって、出て こなくなりました。太陽神である天照大神が隠れてしまったため、天と地は闇の世界となります。困り果てた八百万の神々 は「天安底辺に会いて、その祷るべき方を計ふ。(日本書紀)」 集まってどうすればよいのかを相談しました。 【天安河原(あまのやすかわら)】(高千穂町) アマテラスが天の岩屋に隠れた際に、八百万(やおよろず)の神が集まり会議を開いた場所と伝えられています。 しんと静まりかえった洞窟は別名「仰慕窟(ぎょうぼがいわや)」とよばれ、入口には神聖な場所を示すしめ縄がかけられ、 鳥居が建てられています。また、訪れた人々によって、祈りと神々への崇拝の気持ちがこめられた無数の石が積み重 ねられています。 知恵の神オモイカネがアマテラスを岩屋から引き出す作戦をたてました。 「まず、アマテラスに夜が明けたと思わせるために、ニワトリを集めていっせいに鳴かせましょう。それから、天鈿女命(ア メノウズメノミコト)は岩屋の前でおもしろおかしく踊って、ほかの神々はそれをはやし立てるのです。外の様子をふしぎに 思ったアマテラスが、岩屋の戸を少しでも開けたときに、手力男命(タヂカラオノミコト)はアマテラスを外に引っぱり出す のです」さっそく、ニワトリが集められ、アメノウズメは踊るしたくをととのえました。力の神さまタヂカラオはこっそりと岩屋 の戸のわきに隠れました。いよいよアマテラスを天の岩屋から呼び戻す作戦が始まりました。 まず、女神アメノウズメがしずしずとあらわれ、岩屋の前に置かれた伏せた桶の上で、ニワトリの声に合わせて踊りはじ めました。トントト・・・トントト・・・トトトン・・・! 手拍子、足拍子おもしろく、足を踏み鳴らしながら、腰をフリフリゆらゆら、 何かに取り憑かれたように踊ったものだから、着物はずれるわ、お乳は見えるわ、へそも見えるわで、見ていた神さまたち は大笑い。「ワーッハッハッハ! アメノウズメの姿はどうじゃ!へそが見えるぞ! おっぱいも見えるぞ!ワーッハッハ!」 「私が隠れてしまってまっ暗になったはず。みんな心細いはず。なのにあの騒ぎは何じゃ」 外の騒ぎを不思議に思ったアマテラスは、岩屋の戸を少しだけ開いて、外の様子をうかがいました。すかさず、アメノウズ メがアマテラスに「あなたさまよりも、もっとりっぱな神さまがここにおられます」と言うと、アメノコヤネとフトダマがアマテラ スの前にさっと鏡を差し出しました。そこには、キラキラと光り輝く美しい神さま(アマテラス)が映っていたものだから、アマ テラスはいよいよ不思議に思い、その神さまをもっとよく見ようと身をのりだして鏡をのぞきこんだその時です。 「さあ! 今だ!」 岩屋の戸のわきに隠れていたタヂカラオがアマテラスの手を引っ張り、岩屋から連れ出しました。 あっという間に、高天原には再び日の光があふれ、山も川も輝き始めました。 【天岩戸(あまのいわと)神社 】(高千穂町) 西本宮と東本宮があり、西本宮は、アマテラスオオミカミがお隠れになった「天の岩屋」をご神体として祀っています。 西本宮から岩戸川沿いにしばらく歩くと、八百万の神が会議を行ったとされる「天安河原」があります。 また西本宮の参道脇には勾玉、土器、石斧など古代高千穂地方の貴重な資料約2千点を展示した「徴古館」があります。 天の岩屋にこもってしまったアマテラスを何とかして引き出そうとした「岩戸開き」の神話。 このお話の中ではたくさんの神さまたちが天の安河原であーでもない・・こーでもないと話し合います。そして、知恵の神 オモイカネが考えた作戦の中に“天香具山(あまのかぐやま)”という山の名前が何度も出てきます。 古事記によると、アメノウズメは、天香具山のヒカゲカズラをたすきにして肩にかけ、天香具山のマサキカズラを丸くたば ねて冠とし、これまた天香具山の笹(ささ)の葉を手に持って、天の岩屋の前で踊ったとされています。 また、岩戸開きの神話は、高千穂の夜神楽三十三番のうち、二十三番の「柴引」から二十七番の「舞開き」までのいわゆ る「岩戸五番」として知られています。「柴引」の「柴」とは榊のことで、神楽では、岩戸開きの神事のためにフトダマが天香 具山から榊(サカキ)を根こそぎ抜いてきて岩戸の前に飾る舞が演じられます。 アマテラスが隠れた天の岩屋の戸をぐいと開け、中からアマテラスを力づくで引っ張り出した力の強い神さまがタヂカラオ です。毎年九月の天岩戸神社の秋の大祭では、タヂカラオの像の前でたたみ一枚を投げる岩戸投げ大会が行われます が、一説ではタヂカラオが「エイッ」と持ち上げ、放り投げた岩戸は、長野県の戸隠地方に落ちたといわれています。 ところで、天岩戸神社の西本宮のご神体は“天の岩屋”です。西本宮の本殿裏手の岩戸川の対岸の茂みの中、ガケの窪 んだあたりに“天の岩屋”があります。常時公開はされていませんが、前もって社務所に申し込めば、案内して頂けます。 【月形(つきがた)】(高千穂町) アマテラスを天の岩屋に隠れさせたスサノオが、神々から高天原を出ていくよう言われた際に、ざんげの印として形づくった ものといわれています。 日の神アマテラスの象徴である太陽の光と比べて、スサノオは「自分の光は月の光の半分もない」と言って、三日月形の穴 を掘ったといわれています。 【天香具山(あまのかぐやま)】(高千穂町) ニニギノミコトが高天原から持ってきた榊の木をこの山に植えたといわれ、今でも高千穂神社やくしふる神社の例祭では 、この山の榊を神事に使うという慣わしが残っています。また、天香具山のある浅ヶ部地区には、江戸時代末期に四国88ヶ 所の寺院の土をもらい受けて開場した88ヶ所霊場があり、遊歩道が整備されています。 やがて、日向神話はクライマックスを迎えます。 神々が舞い降りる「天孫降臨」です。 |
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| さて、高天原から追い払われたスサノオは、地上の世界である葦原中国(あしはらのなかつくに)”に降り立ちました。 それから時が過ぎ、スサノオの子孫であるオオクニヌシは、いくたびの試練を乗り越え、葦原中国を長いこと治めてい ましたが、ある日、高天原のアマテラスから国を差し出すよう命じられ、結局それに従ったのでした。 ある日のこと、アマテラスは子のアメノオシホミミを呼んで言いました。 「ようやく葦原中国を治める時がきました。前に話したとおり、あなたがそこに降りて、国を治めなさい」 するとアメノオシホミミは「私が葦原の中つ国に降りるしたくをしている間に子どもが生まれました。名をニニギノミコト (迩迩芸命)といいます。私のかわりにこの子を降ろすのがよろしいかと思います」と答えました。 そこでアマテラスは孫のニニギノミコトを呼びよせるとあらためて、「もくもくとたなびくこの雲の下には、稲穂が豊かに 実る美しい国があります。その国は、葦原中国といい、“天つ神(あまつかみ)”のあなたが治める国です。これからそこ へ降りて、しっかりと国を治めてきなさい」と告げました。ニニギノミコトは、さっそく準備を始めました。 その時のことです。一人の神さまが大慌てでやってきてこう報告しました。 「ニニギノミコトがこれから降りられる道の途中で怪しい姿の神が待ちうけています。体からは不思議な光を出してい て、その輝きは下から高天原を照らし、これから向かう葦原中国までも照らしています」 また、ほかの神さまは「背の高さは見上げるほど高く、口のはしは明るく光っています。目はとてつもなく大きく、ホオ ズキのようにギラギラと赤く光っているのです。・・・おぉ、恐ろしや恐ろしや」と、ブルブル震えています。 それを聞いたアマテラスは、いろいろな神さまを使わしてその神の正体を確かめようとするのですが、どの神さまもた だ逃げてくるばかりです。そこで、アマテラスはアメノウズメを呼んで、「おまえは女神ではあるが、どんな神にも恐れず 向かってゆくことのできる勇気のある神だ。そこであの怪しい神の正体を確かめてきなさい」と命じました。 アメノウズメは言われたとおりにその神のところへ行き、こう尋ねました。 「この道はこれからニニギノミコトがお通りになられます。その前に立ちはだかるとは、そなたはいったい何者か?」 すると、その神は「私は“国つ神(くにつかみ)”のサルタヒコと申します。ニニギノミコトが天から降りられると聞いたの で、ぜひともご案内しようと思い、ここでお待ちしておりました」と答えました。これを聞いたアマテラスはひと安心。 あらためてニニギノミコトは、アメノウズメ、アメノコヤネ、フトダマ、イシコリドメ、タマノオヤの五人の神さまをお供に つけ、サルタヒコの案内で、葦原中国へと旅立ったのでした。 ニニギノミコトはぶ厚い雲をかき分けかき分け、厳かに、そして堂々と降りて行きました。そして、その途中、天の浮橋 に立ち寄ると、地上の世界を見下ろし、これから降り立つ場所をしっかりと確かめました。そして、キリリとそびえ立つ山 をめざしてひと息に降り立ちました。そして、「ここは朝日が海から真っ直ぐに差し込み、夕日もひときわ輝いている。 他と比べようがないほど、とても素晴らしいところだ」 ニニギノミコトはこう言うと、高天原にも届くかと思われるほどの 高さのりっぱな宮殿を建てて、そこに住むことになりました。こうして天つ神の皇子(おうじ)は地上の大地に降り立ち、 葦原中国を支配する時代がいよいよ始まりました |
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| 三種の神器を手に、ついに降り立ったニニギノミコト。 「古事記」の記述では「筑紫に日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りまさしめき」とあり 「日本書紀」では「日向の高千穂の二上の峰に天降りましき」とあります。 この「高千穂」については、西臼杵郡・高千穂町と高原町・高千穂峰の二説があります。 そのため、2年前に開通した「ひむか神話街道」のキャッチフレーズは「北の高千穂から南の高千穂まで」となっています。 【二上(ふたがみ)神社】(高千穂町) 高千穂町と五ヶ瀬町の町境に位置する二上山の麓にあり、イザナキとイザナミを祀っています。 二上山はニニギノミコトの降臨の地として、昔は山全体をご神体としてあがめる数少ない山岳信仰の場所でしたが、 現在では高千穂町に二上神社、五ヶ瀬町に三ヶ所神社がそれぞれ建立されています。 【三ケ所(さんがしょ)神社】(五ヶ瀬町) 天孫降臨の地と伝えられる二上山の祠(ほこら)を、山麓に降ろして建てられた神社でイザナキとイザナミを主祭神として 祀っています。本殿の脇障子には司馬遷の「史記」にちなんだ彫刻が施されているほか、毎年9月の例大祭には国の重要 無形民俗文化財に指定されている「荒踊」が奉納されます。また、二上山の9合目には岩壁に張り付くようにして奥宮が建 てられています。 【くしふる神社】(高千穂町) くしふる峰の中腹にある神社で、古事記に「日向の高千穂のくしふる峰に天降りまし…」と記されるニニギノミコトの降臨の 地として伝えられています。 最初は社殿もなく山そのものをご神体として祀っていましたが、今から300年ほど前に延岡藩主や村人たちの厚い信仰に よって社殿が建てられました。 【高千穂峰(たかちほのみね)】(高原町) 天孫降臨神話の残る標高1,574mの山で、鹿児島県との県境に位置しています。宮崎県側にある山頂にはそのことを物語 るかのように天の逆鉾が立てられています。 天の逆鉾については諸説ありますが、ニニギノミコトが地上に降り立つ場所を雲の上から探すために使った後、山頂に 逆さに立てたものと伝えられています。 やがて天から降臨したニニギノミコトは、笠狭(かささ)の御碕(みさき)、今の西都市に居を構えます。 そして、イザナミの子孫である大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘、木花佐久夜姫(コノハナサクヤヒメ)と出会う こととなります。 ある日、ニニギノミコトが逢初川を散歩をしていた時のことです。それはそれは美しい姫に出会いました。 「あなたはまるで可憐な花のように清らかで、何とお美しいのでしょう」 ニニギノミコトはひと目でその娘に恋をしてしまいました。 「あなたのお名前は?」 「私は山の神オオヤマツミの娘で、コノハナサクヤヒメと申します」 「あなたに兄弟はいらっしゃいますか?」 「はい、イワナガヒメという姉がおります」 名前のとおりに、まるで花が咲いたように美しいコノハナサクヤヒメに、ニニギノミコトはすぐに結婚を申し込みました。 コノハナサクヤヒメにしてみれば、ニニギノミコトは何といっても天つ神の皇子でりっぱな若者。しかも自分に好意を 持ってくれることをとてもうれしく思いました。そこで、コノハナサクヤヒメは 「私もあなたと結婚したいと思っています。ですが、何しろ突然のことですので今すぐお返事をするわけにはまいりません。 一度家に帰って父のオオヤマツミに相談いたします。そのあと父がお答えするでしょう」 と、自分の家へ帰ってゆきました。ニニギノミコトはさっそくオオヤマツミのもとに使いの者を送り、コノハナサクヤヒメと 結婚したい気持ちを伝えました。 娘のコノハナサクヤヒメがニニギノミコトから結婚を申し込まれたことを知ったオオヤマツミは、大喜びです。 「これはこれはめでたいことだ。娘を嫁に出すときには、ニニギノミコトのこれからの幸せを祈って、たくさん の贈り物をしよう」 そして、山ほどの贈り物をコノハナサクヤヒメに持たせ、なぜか、姉のイワナガヒメも一緒にニニギノミコトのもとに嫁が せました。コノハナサクヤヒメを迎えたニニギノミコトは幸せいっぱいでしたが、ふと見ると一緒に姉のイワナガヒメも来て いるではありませんか。木の花のようにサヤサヤと美しいコノハナサクヤヒメ。反対に姉のイワナガヒメはというと、岩の ようにゴツゴツとした醜い顔です。ニニギノミコトはひと目見るなりこわくなってしまいました。 「私と一緒に姉を嫁がせたのは、あなたのためを思った父の心遣いなのです」 コノハナサクヤヒメがいくら言ってもニニギノミコトは聞き入れず、とうとうイワナガヒメをオオヤマツミの元へ返してしまい ました。イワナガヒメが帰されたことに驚き悲しんだオオヤマツミは、 「私が二人の娘を嫁がせたのには意味があるのです。コノハナサクヤヒメを妻にすれば木の花の咲くようにお栄えになっ たでしょう。また、イワナガヒメを妻にすれば岩のようにビクともしない永遠の命を持つことができたでしょうに。こうして イワナガヒメだけ返したことで、ニニギノミコトの命は、いつの日か花のようにはかなく散ってしまうでしょう」 とニニギノミコトを呪いました。 さて、イワナガヒメはというと、毎日毎日鏡をのぞいては、自分が美人に生まれなかったことを嘆(き悲しんでいました。 そんなある日、いつものように鏡をのぞいてみると、そこには竜のように恐ろしい顔が映っているではありませんか。 驚いたイワナガヒメは後ろ向きに鏡を放り投げてしまいました。 その鏡は遠くの山まで飛んでいき、山の木の枝に引っかかり、ふもとの村をいつまでも明るく照らしたということです。 その後、石長姫(イワナガヒメ)は山奥に隠れ住んで農耕に励んだため、この地方は常に豊作で「ヨネヨシ(米良し)= めら」という名がついたそうです。 ちなみに父のオオヤマツミが美と健康、それぞれの象徴である娘二人を送ったのに、ニニギノミコトが美の象徴である コノハナサクヤヒメだけを選んだので、彼女の子孫である人間の命は短く、数十年すれば木花が萎むように散ってしまう といわれています。 【銀鏡(しろみ)神社】(西都市) イワナガヒメとオオヤマツミを祀り、イワナガヒメが投げた鏡をご神体としたとも伝えられています。 鏡は西都市銀鏡の竜房山の頂上の大木に引っかかり、麓の村を明るく照らしたので、その村を白見村と言うようになり、 後にその鏡が銀の鏡だったので、銀鏡の名がついたといわれています。 【都萬(つま)神社】(西都市) コノハナサクヤヒメを祀り、地元では「妻萬様(さいまんさま)」と呼ばれています。お産の神、縁結びの神としてあがめら れています。また、コノハナサクヤヒメが子育てのために、お乳の代わりに甘酒を与えたという言い伝えから、清酒発祥 の地ともよばれています。 【大山祇陵(おおやまつみりょう)】(西都市) 石貫神社から西都原台地につながる石貫階段を登ったところにある前方後円墳で、山の神オオヤマツミの御陵といわ れています。西都原古墳群の中で名前のついている古墳は少なく、オオヤマツミを祀る石貫神社の秋の例祭では、この 御陵の前で神事がとり行われます。 イワナガヒメの一件もありましたが、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメは、めでたく結婚しました。 そして“八尋殿(やひろでん)”という大きな御殿で、初めて二人だけの時間を過ごしました。しかし、夫婦としてともに過ご すことができたのはこの一夜だけでした。 一夜明けると、ニニギノミコトは反乱をくり返す人々を征伐するための旅へと出かけてしまったのです。 時が過ぎ、戦いに勝ったニニギノミコトが帰ってきました。 この時、コノハナサクヤヒメのお腹の中には、ニニギノミコトとの間にできた赤ちゃんがいました。 「あなたが無事に戻ってきたことと、あなたの子どもが授かったことは、言葉にできないほど嬉しく思います」 久しぶりに再会したニニギノミコトにコノハナサクヤヒメは言いました。しかし、ニニギノミコトから返ってきた言葉は意外 なものでした。 「何をいいますか。あなたとはたった一夜だけ夫婦として過ごしただけではありませんか」 「何をおっしゃいます。愛しいあなたの子だからこそ、たった一夜で授かったのです」 愛するニニギノミコトから疑われたコノハナサクヤヒメは、とても悲しくてたまりませんでした。そしてお腹の子が ニニギノミコトの子であることを明らかにするために、自分と、生まれてくる子までをも危険にさらす覚悟を決めたのでした。 【八尋殿(やひろでん)の跡】(西都市) 結婚したニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの新婚生活のために建てられた御殿の跡といわれています。 「尋(ひろ)」は大人が両手を広げたときの指先から指先までの長さを表し、「八尋殿」は8人が手を広げてつないだほどの 大きさの建物だったということになります。 【男狭穂塚・女狭穂塚(おさほづか・めさほづか)】(西都市) 西都原古墳群にあり、男狭穂塚はニニギノミコトの御陵、女狭穂塚はコノハナサクヤヒメの御陵として、宮内庁から 明治29年に御陵墓参考地の指定を受けています。 男狭穂塚は全長155mの国内最大規模の造り出し付き円墳又は帆立貝形古墳ともいわれ、女狭穂塚は全長176mの 前方後円墳で九州最大規模を誇っています。 「コノハナサクヤヒメ、あなたはたった一夜で子どもができたと言いますが、そんなはずはない。その子はきっとほかの 国つ神(くにつかみ)の子だろう」 ニニギノミコトのこのひと言はコノハナサクヤヒメの心をとても傷つけました。 コノハナサクヤヒメは 「私はこれからお産の準備をします。もしあなたが言うとおり、生まれてくる子どもがほかの国つ神 の子であるなら無事に生まれてはこないでしょう。しかし、天つ神であるあなたの子であるなら、たとえ火の中でもきっと 無事に生まれてくることでしょう」 こう告げると、コノハナサクヤヒメは出口のない大きな産屋(うぶや)をつくらせました。 そして中へ入ると、まわりを土で塗りふさいでこもってしまいました。 やがて出産の時が近づきました。するとコノハナサクヤヒメは産屋のまわりにみずから火を放ったのです。そして、燃えさ かる炎の中で三人の男の子が生まれました。三人の名は、火が燃えさかる時に最初に生まれた子がホデリ(火照)。次に 火の勢いがより強くなった時に生まれた子がホスセリ(火須勢理)。最後に火がおとろえてきた時に生まれた子どもがホオリ (火遠理)です。のちに、ホデリは海幸彦、ホオリは山幸彦と呼ばれるようになりました。 こうしてコノハナサクヤヒメは炎の中で無事に三人の子どもを生み身の潔白(けっぱく)は証明されたのですが、ニニギノミ コトから疑われたことにひどく傷つき、それ以後ニニギノミコトに心を開くことはありませんでした。 【木花(きばな)神社】(宮崎市) コノハナサクヤヒメとニニギノミコトを祀り、「木花」はコノハナ(木の花)に由来しているといわれています。 境内にはコノハナサクヤヒメが生んだ3皇子の産湯に使ったとされる「霊泉桜川」や、産屋があったとされる「無戸室(うつむ ろ)の跡」があります。 【無戸室(うつむろ)】(西都市)(宮崎市・木花神社) コノハナサクヤヒメが出産のために造った産屋の跡といわれています。 たった一夜でニニギノミコトの子をみごもったことを疑われたコノハナサクヤヒメは、身の潔白を証明するために、戸の無 い産屋に入り、炎の中で3人の子を生んだと伝えられています。 【児湯(こゆ)の池】(西都市) 火の中で生まれたホデリノミコト(海幸彦)、ホスセリノミコト、ホオリノミコト(山幸彦)の3神の産湯に使ったところといわれ ています。また、この池の名が宮崎県児湯郡の地名の由来にもなったといわれています。 (さて、困りました。無戸室が二つあります。そして「霊泉桜川」・「児湯の池」、どちらも三皇子(神)の産湯ということに なっています???) 炎の中で生まれたコノハナサクヤヒメの子で長男のホデリ(海幸彦)と三男のホオリ(山幸彦)は、いつしかりっぱな若者 に成長しました。兄の海幸彦は海で魚をとり、弟の山幸彦は野や山で狩りをしてくらしていました。 ある日、山幸彦はキラキラ輝く海をながめているうちに、魚を釣ってみたくなりました。 「たまにはおたがいの道具を取りかえっこしてみませんか?」 山幸彦は海幸彦に言いました。 「何を言う。魚をとる道具は命より大事なものだぞ。そんなことができるか!」 と海幸彦は聞き入れません。それどころか釣り糸を海へ投げ込んでは次々と魚を釣り上げました。それを見た山幸彦 はますますおもしろくありません。 「お兄さん、どうか今日一日だけでいいから、弟の願いを聞いてください」 と、泣いて頼み込みました。海幸彦は、しぶしぶ自分の釣り道具と、弟の弓矢を交換しました。さあ、ようやく釣りができ る山幸彦はうれしくてたまりません。さっそく海に釣り針を投げ込み釣りを始めたのですが・・・さっぱり釣れません。 何時間も、何度も、いろいろとやってみたのですが、やっぱり釣れませんでした。釣れないどころか、 「あ! ・・・」 海幸彦の大事な釣り針を海中でなくしてしまったのです。夕方になりそろそろ釣りも終わりだと海幸彦がやってきました。 「お兄さん、私はあなたの大事な釣り針をなくしてしまいました」 「なに! 釣り針は命より大事なもの。たとえ弟でも許すことはできん!」 海幸彦にこう言われても、広い海の中から小さな釣り針を探すことなどできません。困り果てた山幸彦は、自分の剣を 潰して五百もの釣り針を作り、許してもらおうとしましたが海幸彦はどうしても許してはくれませんでした。 海幸彦の大事な釣り針をなくした山幸彦は泣き悲しんで海辺にたたずんでいました。 その時、潮の神さま鹽椎神(シオツチノカミ)が現れ、「どうしてこんな所で悲しんでいるのか。よければ訳を話してみなさ い」と尋ねました。山幸彦はこれまでの経緯を詳しく話しました。 「よろしい。それだったらわしが良い方法を教えてやろう。」 さっそく、シオツチは、竹で小船をつくり、山幸彦をそれに乗せるとこう言いました。 「わしがこの船を押し流すから、そのまま潮の流れにまかせておくがよい。やがて良い潮の流れに乗るから、そのまま ずっと行くと、そのうち、キラキラと光り輝く御殿が見えてくるはずじゃ。それが綿津見宮(わたつみのみや=竜宮)じゃ。 そこに着いたなら、門の傍に木があるから、そこに座ってそのまま待っているがよい。綿津見大神(ワタツミノオオカミ) の娘があなたを見つけ、きっと良い知恵をさずけてくれるじゃろう」 山幸彦はシオツチの教えの通り、船で海を漂い続けていると、たしかにキラキラと輝く御殿が見えてきました。そして、 そこに着くと言われた通りに門のそばの木の上にすわって待っていました。 「誰かしら?いったいどこのどなたでしょう」 最初に山幸彦に気づいたのは、ワタツミの娘豊玉姫(トヨタマヒメ)の侍女でした。 「門のところに、これまで見たこともないようなそれは麗しい男の方がいらっしゃいます」 その騒ぎは豊玉姫(トヨタマヒメ)の耳にも入りました。様子を見に外に出てみるとトヨタマヒメの目に映ったのは、凛々 しく、神々しい若者の姿でした。 「なんとすてきな方でしょう」 「何と美しい人だ」 たちまち両者の心は燃え上がり、綿津見大神からも祝福を受けることのできた二人は結婚することになりました。 【王楽寺(おうらくじ)】(宮崎市) 宮崎市瓜生野の竹篠山にある古寺で、ホオリノミコト(山幸彦)がこの地で誕生し、成長した後にここから日向灘を眺め たといわれています。王楽寺という名前は、ニニギノミコトが「朝日や夕日のさすこの地は良い地である」と言って楽しん だ場所ということに由来していると伝えられています。 海の御殿、綿津見宮(=龍宮)で、トヨタマヒメと結婚した山幸彦。楽しく、幸せな日々が続き、あっという間に三年が 過ぎてしまいました。 ある日、山幸彦は大きなため息をつきました。「・・・はて、私がここにやって来た訳は何であっ たろうか」しばらく考えて、ここに来たわけを思い出したのです。 山幸彦のため息を聞いたトヨタマヒメは心配して、父のワタツミにそのことを話しました。 山幸彦の苦しみを聞いたワタツミは、さっそく海にいる魚という魚を呼び集め、釣り針を飲んだ魚はいないか訊ねま した。すると集まった魚たちが答えました。 「そう言えば、赤いタイがのどに何か刺さって、物も食べることができな いと苦しんでおります。そんな日が三年も続き、たいそう病み衰えているようです。そのせいで、今日もここに来れず におりますが、きっとあの赤いタイがそうでしょう」 ワタツミはさっそくその赤いタイを呼び、のどを探ってみると、そこには海幸彦の釣り針が刺さっていました。ワタツミは、 すぐにそれを取り、洗い清め、そして山幸彦に渡しながらこう言いました。 「この釣り針を兄上にお返しになるときは、『この釣り針はつまらない針、うまくいかない針、貧乏の針、おろかな針』と 心の中で唱えながら渡しなさい」 そして、潮満珠(しおみつたま)と潮干珠(しおふるたま)という二つの珠を山幸彦に さずけて、「兄上は三年のうちに必ずや貧しくなるでしょう。そのとき、あなたを憎んで攻めてきたら、この潮満珠を使い なさい。潮がたちまち満ちてきて、兄上を溺れさせることができます。もし、兄上が謝って救いを求めてきたら、この潮干 珠を使いなさい。潮は自然と引きます。このようにこらしめ続ければ兄上はあなたに降参するでしょう」と教えました。 こうして、潮満珠と潮干珠を手に入れた山幸彦は、三年の月日を経て、兄海幸彦に釣り針を返すため、ワタツミの宮 から陸に帰る決心をしたのでした。 【青島神社】(宮崎市) 山幸彦がワタツミの宮から帰ってきた際に、当神社のある青島にたどり着いたといわれています。 毎年1月に行われる「裸参り」は、村人たちが着物を着るひまもなく、海に飛び込んで山幸彦を迎えたという故事にち なんでいます。境内には、天孫降臨から神武天皇の東征までをろう人形で再現した「日向神話館」があり、神話のスト ーリーが分かりやすく展示されています。 【潮の井(しおのい)】(西都市) 山幸彦を祀り、山幸彦が海幸彦をこらしめた際に使った潮満珠と潮干珠をご神体とする鹿野田神社(かのだじんじゃ )の境内にあります。潮の井は「潮満の泉」とも呼ばれる井戸で、海から10キロ以上離れているにもかかわらず、そこか ら湧き出る水は塩辛く、また、潮の満ち引きに合わせてその水位が上下するといわれています。 いよいよ山幸彦が帰る日がやってきました。 「私はこれから陸に戻り、兄に釣り針を返してきます」 すると、ワタツミは瞬く間に海中のサメを集め、たくさんのサメ の中から一頭選んで山幸彦を一日で陸へ送り届けるよう命じました。山幸彦を背に乗せたサメは、もの凄い速さで海 を進み、約束どおり一日で陸に着きました。 山幸彦は三年ぶりに陸に上がりました。 そしてさっそく兄の海幸彦のも とへ行くと、ワタツミから教えられた通りにおまじないを唱えながら釣り針を返したのです。 それからというもの、海幸彦の釣り針は以前のようには魚が釣れなくなりました。ほかにも、やること成す事全てがうま くいかないようになり、次第に、「これはきっと弟のせいにちがいない」 と考えはじめました。そしてとうとう山幸彦を攻め てきたのです。山幸彦は、今度もまたワタツミから教えられた通りに潮満珠を使って海幸彦を溺れさせ、海幸彦が救いを 求めたところで今度は潮干珠を使って助けました。しかし、負けずぎらいの海幸彦は一度のことでは懲りません。何度も 山幸彦を攻めては同じようにやっつけられてしまいました。 「これは何だかおかしいぞ?」 何回戦っても勝てないことを不思議に思った海幸彦は、ようやく山幸彦がワタツミから力を授かったことに気づきました。 そして山幸彦に向かって「もう二度とあなたに逆らいません。これからはあなたに従い昼も夜もあなたをお守りしましょう」 と深々と頭を下げたのでした。 こうして、海幸彦は山幸彦に仕えることとなったのです。 二つの玉を使って兄の海幸彦を従わせることに成功した山幸彦は、後に天皇家の祖先となります。 ちなみに、海幸彦のほうは北郷町の潮嶽神社に祀られました。その付近では、今でも縫い針の貸し借りが禁じられて いるといいます。神社下の川には、兄と弟の争いが収まった後でここに来たもう一人の子、火須勢理命が乗ってきた 船が石になった岩舟があります。 【鰐塚山(わにつかやま)】(田野町) 山幸彦がワタツミの宮から陸に戻るときに乗ってきたサメの墓(塚)があると伝えられ、鰐塚山の名前もこれに由来し ています。なお、古事記や日本書紀の中にでてくる「鰐(ワニ)」とは、サメやフカなどを指しています。 【都於郡城跡(とのこおりじょうあと)】(西都市) 日本書紀には、山幸彦の御陵について「日向の高屋山上陵(たかやのやまのうえのみささぎ)」とあり、都於郡城跡が その地であるといわれています。14世紀半ば、この地を支配していた伊東氏はここに山城を築き、以来約250年にわた り、日向を治める居城としてその栄華をきわめました。 海幸彦との決着もついたある日のこと、山幸彦のもとに綿津見宮からトヨタマヒメが一人で訪ねてきて、こう告げました。 「私のおなかにはあなたの子どもがいて、もう間もなく生まれそうです。私は海の国の者ですが、天つ神(あまつかみ) のあなたの子を海で生むことはできません。それで、こうしてやってきました。どうか、波打ちぎわに鳥の鵜(う)の羽で小 さな産屋(うぶや)を建ててください。私はそこであなたの子を産みたいと思います」 山幸彦は大急ぎで産屋をつくりはじめました。しかし、鵜の羽で全部屋根をつくり終わらない内に、トヨタマヒメは今にも 子供が生まれそうになり、慌しく作りかけの小屋の中に入ってしまいました。そして、 「どうか、私が子を産む時にはお願いですから絶対に中をみないでください」 と、山幸彦に告げました。 しかし、「見るな」といわれれば見たくなってしまうものです。 「どうして中を見てはいけないのだろう」 不思議に思った山幸彦は我慢できずにとうとう中を覗いてしまいました。すると、そこには大きなサメがのた打ち回って いたのです。トヨタマヒメの本当の正体はサメだったのです。それをみて驚いた山幸彦は、後ずさりして逃げ出してしま いました。子供を無事に産み終えたトヨタマヒメは、「あんなに見ないでくださいとお願いしたのに、私の本当の姿を覗か れて、とても恥ずかしく思います。この子を育てるために、これからは海から通ってこようと思っていましたが、今となっ ては、それもできなくなりました。」 こういうと波打ち際に生まれたばかりの子どもを置いて、龍宮に帰ってしまいました。 このとき生まれた子は、鵜の羽を産屋の屋根に葺き終わらないうちに生まれたことから、鵜葺草葺不合命(ウガヤフキ アエズノミコト)と名付けられました。 トヨタマヒメから 「覗かないでくださいね。」 と頼まれた山幸彦が、我慢できずに中を見てしまったために、トヨタマヒメは龍宮に帰る事になるのですが、ただ一つの 心残りは我が子ウガヤフキアエズを残していくことでした。 「かわいい我が子を残していくのが気がかりです。きっとお乳が欲しくて昼も夜も泣き続けることでしょう」 トヨタマヒメはこう言うと、何と自分の乳房を引きちぎり、産屋の傍らに張りつけ、海へ帰っていきました。 その後、トヨタマヒメの妹タマヨリヒメはその乳岩から滴り落ちるお乳でウガヤフキアエズを大切に育てたそうです。 鵜戸神宮の洞くつの中には、今もこの“お乳岩”があり、清らかな水がぽたぽたと滴り落ちています。 鵜戸神宮には、この水で作った「おちちあめ」があり、お土産として参拝客に喜ばれています。 【鵜戸(うど)神宮】(日南市) ウガヤフキアエズの生誕地と伝えられ、縁結びや安産の神としても知られています。 トヨタマヒメが我が子ウガヤフキアエズを思って残したとされるお乳岩や、海から乗ってきた亀がそのまま岩になった とされる亀石があります。 【佐野原聖地(さのばるせいち)】(佐土原町) ウガヤフキアエズが天下を治めたところといわれ、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)をはじめ、4人の皇子の生誕地と いわれています。また、「佐野原」の地名は、神武天皇の幼名サノノミコトに由来するものといわれています。 【吾平山上陵(あひらのやまのうえのみささぎ)】(日南市) ウガヤフキアエズの御陵伝説地として明治29年に宮内庁が指定したところです。 鵜戸神宮の背後にある速日の峰の山頂にあり、今もおごそかで高貴な気配が漂っています。 【吾平山陵(あひらさんりょう)】(高千穂町) ウガヤフキアエズの御陵として伝えられています。 古くから神話の里高千穂を代表する大切な御陵として祀られており、毎年4月に祭典が行われます。 生まれたばかりの子を置いて妻のトヨタマヒメが海に帰ってしまってからというもの、山幸彦はお乳をあげる者、食事を 作る者、お風呂に入れる者など、ウガヤフキアエズの世話係を決め、大切に育てていました。 トヨタマヒメはというと、お腹を痛めて生んだ我が子ウガヤフキアエズが恋しくて、いてもたってもいられない日々を送 っていました。その想いはつのる一方で、トヨタマヒメは自分の代わりに妹のタマヨリヒメを、ウガヤフキアエズの育て 役として寄こしました。タマヨリヒメも我が子のようにそれはそれは大切に育てました。 やがてりっぱな青年に成長したウガヤフキアエズは、タマヨリヒメと結婚しました。 「日向三代」(ひゅうがさんだい) 日向神話で活躍する三人の神のことです。一代目はニニギノミコト。ニニギノミコトは、山の神オオヤマツミの娘コノハナ サクヤヒメとの結婚によって山の支配権を得ました。二代目のホオリノミコト(山幸彦)と三代目のウガヤフキアエズノミ コトは、ともに海の神ワタツミの娘と結婚し、海の支配権を得ました。こうして天と地と海の支配者としての資格を持った天 つ神の子は、大支配者となったのです。 タマヨリヒメは暫くして、彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)、稲飯命(イナヒノミコト)、三毛入野命(ミケヌノミコト)、狭野命 (佐野命=サノノミコト)という四人の皇子を生みました。最後に生まれたサノノミコトこそが、別名、神倭伊波礼毘古命 (カムヤマトイワレヒコノミコト)、後に初代天皇となる神武天皇です。 ウガヤフキアエズとタマヨリヒメが4人の子供たちをもうけた場所は霧島の東麓といわれ、高原町の狭野神社は神武 天皇の幼名を由来としています。さらにこの子供たちが遊んだ川の滝を皇子滝といい、皇子原の地名もそれにちなん でいるということですが、「サノ」という場所については佐土原町佐野原聖地にも、神武天皇の生誕地という伝承が残っ ています。 カムヤマトイワレヒコは、生まれながらにして賢く、性格もしっかりしていました。十五歳で皇太子となり、アヒラツヒメを 妻に迎え、高千穂の宮で国を治めていました。 カムヤマトイワレヒコが四十五歳になったときのことです。潮の神シオツチがカムヤマトイワレヒコに言いました。「ここ から東の方によい土地があります。これから国を治めていくには、そこに行かれるとよろしいでしょう」 それから、カムヤマトイワレヒコは兄とも相談し、自ら軍を率いて日向の美々津から東に向けて旅立ったのでした。 (シオツチを覚えていますか?そうです、海幸彦と山幸彦の物語に出てくる鹽椎神(シオツチノカミ)のことです。 ホデリノミコト(海幸彦)を助けたときすでに老齢であったシオツチが、孫のカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)四十五歳 で、再登場します。いったい、このおじいさん何歳まで生きたのでしょう??) 【 宮崎神宮 】(宮崎市) カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)を主祭神として祀り、神武天皇の孫タテイワタツノミコトが創建したとも伝えられてい ます。毎年10月下旬に行われる大祭は「神武さま」の名で親しまれています。 【 皇子原(おうじばる)公園 】(高原町) 「皇子原」はカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の生誕地といわれています。高原町一帯を見下ろす高台に整備された 公園内には、皇子原神社や「神武の館」などがあります。 【四皇子峰(しおうじがみね) 】(高千穂町) カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の兄弟神4皇子の生誕地と伝えられ、御陵塚があります。 4兄弟の中では、ミケイリノミコトだけが東征後に高千穂に帰り、鬼八退治の伝説が残されています。 【 タマヨリヒメ陵 】(日南市) ウガヤフキアエズの乳母で、後に妻となったタマヨリヒメの御陵墓といわれています。 近くにはタマヨリヒメを祀る宮浦神社があります。 神倭伊波礼毘古命は海神から拝領した「龍石」という馬に乗って、近くの山野を駆け巡っていました。時々、父の 鵜葺草葺不合命が生まれた鵜戸にも船で渡っていたといいます。そのときに船を繋いでいたのが、日南市にあ ったとされる「船つなぎ松」であり、日南市の駒宮神社のご神体は「龍石」です。近くには神倭伊波礼毘古命が草履 で歩いた跡といわれる草履石、龍石の蹄の跡といわれる駒石があります。同様の蹄跡は北郷町千達神社にもあり 、これは神倭伊波礼毘古命の青年時代の愛馬「御幸」の蹄跡であるといいます。 その後、神倭伊波礼毘古命は天下を治めるには東に行かねばならないと決心し、「東征」に向かいます。 日向の美々津から「お船出」して、難波に上陸。紀伊の山道を越えて橿原に着き、そこで皇位に就きます。 紀元前660年、縄文時代晩期のこととされています。天皇家がはじまり、大和朝廷が興って日本人の歴史が始 まるのは、このときからであったと言っていいでしょう。 日向神話は神武天皇の誕生をもって一応の幕引きとなります。 これから先は神話の世界ではなく、人間の世界となるからです。しかし、宮崎県内には神武天皇の東征に到るま での伝承ばかりではなく、その後の人間たちの物語も豊富に語り継がれています。 この地には、かつて神々と、神とともに生きた人々の営みがありました。そのとき生まれた畏敬の念や感謝の心を 私たちの祖先はずっと語り継ぎ、神楽の舞いに託してきたのです。このことは宮崎に生まれた私たちにとって 誇れることであり、また、幸福に思えることでしょう。 参考資料 ひむか神話街道・探訪記(宮崎日日新聞社刊)、 宮崎県ホームページ
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