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宮崎神宮 みやざきじんぐう |
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| 宮崎市 神宮 2−4−1 Yahoo!マップ Googleマップ(航空写真) |
| 宮崎神宮公式ウェブサイト |
■秋のみやざき植木市 2009/11/4(木)〜30(月) 9:00〜17:00 問合せ 宮崎商工会議所 0985-22-2161 |
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| 神明造りの社殿 神紋は菊花(三つ割菊に矢) |
| 旧・県社、旧・官幣大社、現・別表神社 主祭神 神倭磐余彦命 / カムヤマトイワレヒコノミコト ( 神武天皇) 配祀 鵜葺草葺不合命 / ウガヤフキアエズノミコト 玉依比売命 / タマヨリヒメノミコト (神武天皇の両親) 古くは神武天皇社・神武天皇宮と称され、我が国の初代天皇である神武天皇ゆかりの宮として 、市民から崇敬され親しまれています。宮崎の代表的な観光コースに組み込まれていることもあ り、全国からの参拝客も絶えることはありません。 毎年10月下旬には、「神武さま」の名で市民に親しまれている秋の風物詩「宮崎神宮大祭」が盛 大に行なわれ、市内中心部約4kmを2日かけて往復する御神幸祭は、延べ10万人以上の人出 で賑わいます。 緑深き神苑の面積は251,945u。広大な「神宮の杜」は、宮崎市民の憩いの場ともなっています。 ちなみに、宮崎という地名の由来には「ミ = 神」という意味から「ミヤ = 神の家」のさき(前・先)、 つまり 『カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)の宮のまえにひろがるところ』 という説と、「ミヤ = 原野」の意味から『原野の先端の地域であるから、ミヤの先→みやざき となった』という説が あります。 |
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御由緒 社伝によれば、筑紫の鎮守であった建磐龍命(たていわたつのみこと)が 創建されたとか、景行天皇の熊襲(くまそ)征伐時に再興されたとか、応仁 天皇の御代に国造老男命(おいをのみこと)がお祀り申したとかあるが、 平部橋南(ひらべきょうなん=幕末の飫肥藩の儒学者)が「いはれある古迹 (こじゃく)ながら悲しいかな千戴の久しき間文献の徴すべきものがない」と 嘆息して述べた通り、これを諾(うべな)わざるを得ない。 |
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| だが、平安時代期になると、宮崎に神武天皇の都があったという説は かなり普及していた。『平家物語』(長門本)の俊寛僧都島流しのところ に、「吾が朝、人皇の始、神武天皇の日向の国宮崎の郡に帝都を立て 、御即位ありし時、云々」とあり、『神皇正統記』等にも同様の記述があ る。宮崎帝都説はその東征と共に中世を通じて定着したと考えられる。 鎌倉時代末の建久八年(1197年)地頭土持太郎信綱(つちもちたろう のぶつな)が現在の船塚の地に宮殿を造営し、御遷座を奉仕したこと を述べた奈古神社の古文書を、五味克夫氏が『中世史研究』で紹介さ れている。 |
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| さらに文明五年(1473年)伊東祐国が、永禄五年(1562年)には伊東 祐立が、それぞれ社領を献じ、天正五年(1557年)には島津義久がお 祓料と米穀を奉献した。鎌倉から戦国へ、戦いにあけくれた武将たちの 、当宮に対する尊崇がことのほか篤かったことが知られる。さらに幕藩 体制下の寛永二十一年(1644年)領主有馬康純が社殿修復の時の棟 札を読むと、神武天皇を日本国帝王の祖と言い、その苗裔が今まで続き 、これからも乾坤と共に永く続くであろうと書いてあり、そこには明確な神 武意識・天壌無窮の神勅の思想が述べられている。 |
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ところで徳川時代の当地(宮崎郡)は延岡藩の所領で、その飛び地だった。 延享四年(1747年)十月、有馬氏改易後転封されて来た内藤備後守に差し 出された一庄屋の文書に「是ハ古来ヨリノ地頭様御普請所ニテ御座候」とあ る。また境内地三万坪は古来より無年貢地で、「村高ニ相除有之候」とある。 さらに「尤五月初午ノ日、六月晦日、十一月午ノ日一ケ年二三度下北方村、 南方村社人罷出祭相勤申候」とある。これから四十年経た天明四年(1784 年)十月、大野河内名をもって、御本所様へ差し出した調書に、「当社ハ私ノ 外神主長田大和、祠官井上土佐三人ニテ諸祭相勤外ニ下社家三十人斗御 |
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| 座候」とあり、延享から天明にかけて次第に神社が整備されてきたことが分かる。 しかし当社が脚光を浴びるのは、明 治維新以降である。「神武創業ノ始メニ原ヅキ」と言われて御祭神を共に注目された。明治六年五月、宮崎神社と改称、 県社となり、同年八月に国幣中社、同十一年五月社号を宮崎宮と改め、同十八年四月、官幣大社に列せられた。 大正二年七月、宮崎神宮と改称になる。さて神社の昇格、社号改称の請願が官幣大社昇格をもって一応その目的を 達したので、それに相応しい社殿の造営と境内整備へと眼が向けられたのは当然であった。明治三十二年四月、「神 武天皇御降誕大祭会」が結成された。総裁に仁条基弘、会長に島津忠亮、幹事長に高木兼寛を選んだ。高木兼寛は 海軍軍医総監で慈恵医大の創設者である。 |
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| 明治三十二年の帝国議会において、同大祭会に対する補助金の件 が議決され、政府より十万五千円が交付されることとなった。さらに 同三十八年十月、明治天皇より御内帑金一万五千円を御下賜給わっ た。これに力を得た高木幹事長は奮起して全国募金に奔走した。かく て急速に事業は進捗し、明治四十年十月に竣工報告祭が行われるに 至った。さらに紀元二千六百年に当たる昭和十五年、奉祝会が結成さ れ、奉祝記念行事が橿原神宮に次いで二位となり、境内の拡大整備 が実施された。本宮並に皇宮神社の境内地の拡張、流鏑馬(やぶさめ )馬場の設営、玉垣、参道、車道の工事等であり、徴古館も新築された 。ここにおいて現・宮崎神宮の形態が完備され、神社運営の永遠の基 盤が確立された。当時の宮司は河合繁樹であるが、高木兼寛とともに その名を忘れてはならない。 |
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| 黒岩龍彦(元宮崎神宮宮司) 『日本「神社」総覧』(最新版) 新人物往来社刊 より |
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荘厳な雰囲気の境内にカラスが一羽。 八咫烏(やたがらす)の末裔? |
| 【 官国弊社 】(かんこくへいしゃ) 明治四年に定められ、昭和二十年まで続いた神社の公的な社格制度。 官幣大社・中社・小社・国幣大社・中社・小社、並びに別格官弊社の社格が設けられました。 これらを総称して官国弊社といい、「官社」と略称することもあります。 |
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| 【 別表神社 】(べっぴょうじんじゃ) 神社本庁が定めた、神社本庁が包括している一部の神社のこと。 第二次大戦後、公的な社格の制度が廃止されたため、それに代わるものとして定められました。社格制度廃止後は、 全ての神社は対等の立場であるとされました(伊勢神宮を除く)。しかし、一部の規模の大きな神社については、神職 の進退等に関して一般神社と同じ扱いをすると不都合があることから、「役職員進退に関する規程」において特別な扱 いをすることと定めています。その対象となる神社が同規程の別表に記載されていることから、「別表に掲げる神社」 (別表神社)と呼ばれています。このように、別表神社は社格のような神社の格付けではなく、あくまでも神職の人事の みにかかわる区別です。しかし、別表に掲げられている神社は社殿、境内、神職の数などの面で比較的大きな規模の 神社であり、一般には一種の格付けとして捉えられているのが実情です。別表神社には、神社本庁配下の旧官国幣 社が全て含まれるほか、指定護国神社・旧府県社などの一部が含まれています。 |
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【平部橋南】(ひらべきょうなん) 橋南は清武郷(きよたけごう)の生まれで、同郷の安井息軒に師事し、伊東藩の家老として藩政に寄与した人ですが、 学者として藩黌(こう)振徳堂の教授をも務めました。第一次宮崎県の開設にあたり、地誌の編纂を委嘱され、明治九 年(1876)から事をおこし、五郡三七六村県内ことごとく実地に踏査し、明治十七年(1884)脱稿したのが『日向地誌』 です。その間、西南の役に遭(あ)い、また県の廃止・再置のことなどあって、大変な困難を克服して大成したものです。 |
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| 【 高木兼寛 】 (たかき かねひろ / けんかん) 1849−1920 慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大造営などの数々の偉業を成しとげた 郷土の偉人。 薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷(現・宮崎市高岡町)に生まれる。通称は藤四郎。戊辰戦争の際に薩摩藩軍 の軍医として従軍した。その時の経験から、当時まだ漢方医学(東洋医学)によって治療していた薩摩藩に近代的 な西洋医学を取り入れようと決意し、イギリスに留学して医学を学んだ。帰国後に海軍の軍医となり、最終的に海軍 軍医大監(大佐相当官、その当時の海軍軍医の最高階級)の階級まで昇進して海軍医務局長・海軍軍医総監の役 職を歴任した。当時軍隊内部で流行していた脚気について、原因はある種の栄養素の欠乏のためと考えた高木は 軍艦が2回の遠洋航海を行った際の乗組員の食事の内容と脚気の発生率の関係を検証した。脚気は細菌が引き 起こす感染症であると主張していた森林太郎(森鴎外)達と学説上の対立をみたが、高木が主張した白米の中に大 麦を混ぜた麦飯食で脚気を鎮めることが出来たために高木の予防法が普及することとなった。これは下瀬雅允によ る下瀬火薬の開発と並ぶ日露戦争の際の日本海海戦の間接的な勝因と考えることもできる。 高木はこれらの功績により明治38年(1905年)に華族に列せられ、男爵の爵位を授けられた。この際、人々は(おそら くは)親愛と揶揄の両方の意味をこめて彼のことを「麦飯男爵」と呼んだと伝えられている。また、死去した直後に従二 位の位と旭日大綬章が追贈されている。なお南極大陸の南緯65度33分・西経64度14分に「Takaki Promontory」すな わち「高木岬」 という岬があるが、これは彼の名にちなんで付けられた地名である。日本人で南極大陸の岬の名前に なった人物は高木兼ェだけである。 (Wikipediaより) |
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| 宮崎神宮 旧・徴古館(ちょうこかん) | ||
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| 竣工明治40〜41(1907〜8) 木造2階建て寄棟屋根 瓦葺 設計 伊東忠太・佐々木岩次郎 施工不詳 (徴古館とは、宝物や資料を展示した神社の博物館・資料館のようなものです。) 慶応三田演説館をモデルになまこ壁の外壁で造られた、とても印象的な建物です。 開館当日は、モダンな建物を見るために、3000人の県民が訪れたそうです。 現存するなまこ壁の洋風建築物は非常に少なく貴重なものです。宮崎の財産といって もよいでしょう。適切な修理・保存が望まれます。 |
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| 【 なまこ壁 】 一辺が約30cmの平瓦を外壁に、対角線が垂直及び水平になるように貼り、瓦と瓦の継ぎ目に白漆喰を塗る もので(四半張り)、立体的に盛られた漆喰の形が海鼠(ナマコ)のように見えることからなまこ壁と呼ばれる ようになりました。(なまこ壁の形状には、宮崎神宮・徴古館に見られる「四半張り」の他、「いも張り」「馬乗り 張り」「亀甲」「七宝」「松皮菱」等があります。)日本家屋において、なまこ壁工法は江戸中期の城郭や領主の 居館、あるいは商家の蔵の外壁として、防火・耐水の目的で広く用いられてきました。 初めて洋風建築になまこ壁が用いられたのは、慶応2年に横浜に建設されたイギリス公使館(仮)だといわれ ています。慶応元年、横浜居留地の半分以上を焼き尽くした大火後、アメリカ人建築家R.P.ブリジェンスが、 耐火性に優れ工期が早く建築費が安いとしてなまこ壁構造を採用しました。他にも横浜のフランス海軍病院・ フランス軍駐屯所なども、なまこ壁でした。 なまこ壁による洋風建築の最大のものは、ブリジェンスに師事した清水喜助(現・清水建設の創業者)が設計 と施行を行った築地ホテル(明治元年竣工)でした。これを参考にして建設されたものであろうといわれている のが、新潟運上所(明治2年竣工)、三田演説館(明治8年竣工)だといわれています。なまこ壁の洋風建築物 で現存しているものは非常に少なく、この他に伊豆松崎町の岩科学校(明治13年竣工)、そして宮崎神宮 徴古館(明治40〜41年竣工)があります。 |
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宮崎神宮 新・徴古館 (武道館・旧博物館) 竣工 昭和15年 帝冠様式 2006年春、台風被害と老朽化の ために取り壊され、66年の歴史に 幕を下ろしました。 |
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| 新・徴古館は、神武天皇即位から数えて2,600年にあたる昭和15年、紀元二千六百年奉祝記念事 業の一環として建設されました。 昭和26年4月1日に、宮崎県立博物館が設置され、同年6月1日に当館を借用し開館。広さは223坪 で地下と一階の2層構造になっており、展示室は4つに分かれ、第1室は特別展示室、第2室は縄文 文化時代室と弥生時代文化室に分かれ、第3室は古墳文化時代室、第4室は奈良時代以後の歴史・ 民俗資料をまとめて展示していました。 昭和46年、神宮の森の北部に県立総合博物館が新設された後は、剣道道場「神武館」が稽古場として 利用。盛時には約200人の子どもたちが練習に励み、元気な掛け声が森の中に響いていました。 |
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左 神宮会館・宮崎神宮での結婚式の際 に披露宴会場として使われます。人気 のある施設で私の周りでも数人がお世 話になりました。 右 宮崎神宮・社務所 0985-27-4004 |
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古代船 「おきよ丸」 西神苑・御奉安所 神武東征の神話を基に、西都原古墳群から出土した舟形埴輪を モデルに製作されたもの。 秋に行なわれる御神幸行列で、神武天皇役や阿比良姫(あひらつ ひめ)役らが乗船し、祭りの新しい目玉の一つになっています。 |
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末社 五所稲荷神社 保食神(うけもちのかみ)・宇迦魂 (うかのみたま)を祀ります。 下北方・花ヶ島等に鎮座する五つの 神社の祭神を合祀したもの。 |
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| 大白藤の藤棚 | 猿蓑塚(さるみのづか) | ハゼラン |
| 宮崎神宮の オオシラフジ / 大白藤 国指定天然記念物 昭和26年指定 |
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| 藤棚のほとんどは藤色のフジ。オオシラフジは池側から見ることができます。 | ||
参道の東側に大白藤の藤棚があり、開花期には多くの花見客で賑わいます。 同種では、わが国で最も大きい樹木。根周り2.95mで幹が二つに分かれています。西の枝は径1.6m、 東南の枝は径1.41mあり長く伸び、樹冠は西南方面に約12.23mに達し、東方面にはあまり伸びず 6.35m。四月中旬頃、真白で大きな花を咲かせ皆の目を楽しませてくれます。 オオシラフジは 正式学名ではなく、フジの一品種(マメ科のシロバナフジとの事)で白く大きな花を つけることからその名がついているようです。 樹齢についてははっきりせず、800年、600年、400年、など資料によってバラバラです。 明治40年当時の宮崎町長が植えたもので樹齢約200年、という説もあり(ある程度樹齢を経たものを 植え替えたということでしょうか?)、よくわかりません。 |
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猿蓑塚(さるみのづか) 猿蓑集を埋納し石碑をたてたもの。猿蓑集とは蕉門(松尾芭蕉の一門)の句集で円熟期の蕉風を示す、 芭蕉七部集の真髄ともいわれる俳諧集です。 宮崎神宮の猿蓑塚は、文化7年(1810)日向江平の俳人「太田芳竹(おおたほうちく)」達が松尾芭蕉の 功績を讃えて建立したもの。文化・文政年間、日向の諸藩では連歌が盛んとなり、各地に芭蕉碑がつくら れました。宮崎神宮の他、都於郡(とのこおり)の大安寺、佐土原の久峰観音の境内などにも石碑があり ます。 |
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仁王像 おそらくは、五所稲荷大明神に縁の寺(別当寺)のものではないか と思われますが、残念ながら正確なところはわかりません。あるい は沙汰寺(伊満福寺・末寺)に関わりのあるものかも知れません。 県内に古くからあった寺院は、明治の廃仏毀釈によって、建物も文 献も殆どが毀却されてしまいましたが、なぜか仁王像だけは壊され ずに各地に残っていることが多いようです。仏像を破壊した連中でさ えも、仁王像の憤怒の顔には恐れをなしたということでしょうか・・・。 |
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| 「神武さま」(秋の神武大祭) | |||
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| 御鳳輦(ごほうれん) | 獅子舞 | シャンシャン馬 | 古代船「おきよ丸」 |
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毎年10月下旬に、御神幸祭(神武大祭)が盛大に開催されます。 神賑(しんしん)行列は市民約2000人が参加、宮崎神宮を出発し、橘通 りを経て瀬頭御旅所までの間を2日かけて往復する、ゆったりとしたペー スで練り歩くお祭りです。シャンシャン馬の再現などがあって、宮崎の秋 の風物詩となっており、沿道は多くの見物客(延べ10万人以上)で賑わい ます。明治初年までの本宮の御神幸祭は、例祭終了後に行われる習わし でしたが、その範囲は神輿を担いで境内地、神社の近くを回る程度でした。 現在のように「御神幸の儀」の形が整えられたのは明治四十二年以降のこ とといわれています。戦中に行事は行われなくなりましたが、昭和二十一年 に御神幸祭を復活し、同二十五年には現在の形での神武天皇祭が行われ るようになりました。 |
流鏑馬(やぶさめ) |
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宮崎神宮の神事「流鏑馬」が古くから「ヤクサミの神事」として、毎年秋の 例祭の日に盛大に行われていたことは『日本古義』(高木正朝著)や『笈埃 随筆』(百井塘雨著)などの文献に見られます。それによると藩政時代の流 鏑馬は、開始前に神前において礼式を行っていましたが、その実は競馬と して行われていました。近郷近在より選ばれた駿馬が1700〜1800騎余 り集まっていたということから、いかに祭りが盛大であったかが想像されま す。明治三十一年宮崎競馬会が設立され、ヤクサミの神事は途絶えました が、昭和十五年、流鏑馬の馬場が現在地に設けられ、有職故実家の関保 之助氏や小笠原流の斉藤直芳氏に指導を仰ぎ、武家流鏑馬の古義に則り 、それ以前の故実も尊重し「古式流鏑馬」が再興されました。 神事は四月二日の川原祓の儀に始まり、翌三日の饗膳の儀、奉幣の儀終 了後、馬場入の儀となります。先陣を務める役射手が鎌倉時代の狩り装束 で登場、続いて江戸装束の射手が繰り返し射込みます。的に矢が当たると モミで作られた的は千々に砕け、この的は一年の豊穣と発展を祝福する縁 起物とされています。 |
| 神宮の森 | ||
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| 子供の頃はよく虫取りに行きました。大物はあまりいないけれど、 コクワガタはたくさんいました。椎の実を拾って食べたり、屋台の 駄菓子でお腹を満たして一日中遊んだものです。 気軽に行ける森林浴スポットとしても、人気のある宮崎神宮。 森の空気を吸いつつ、思索にふけりながら歩くのもたまにはいいものです。 |
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| 東神苑(駐車場) | 西神苑(駐車場) | |
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| 流鏑馬馬場 | ボーイ・ガールスカウト団ホーム | |
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船塚古墳 昭和52年4月1日宮崎県指定 宮崎神宮本殿の北側の森のなかにあり、周濠をもつ 前方後円墳。全長76.8m、後円部径約36m、前方 部幅約47m、周濠幅約13m。 古墳時代中期末ないし後期初頭の築造と思われます。 |
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宮崎の巨樹百選 樹木名 ラクウショウ 所有者 宮崎神宮 樹 齢 100年 幹 周 460cm 樹 高 24m 平成4年3月認定 宮崎県 |
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| 宮崎県総合博物館 | 埋蔵文化財センター | 民家園 |
| 宮崎神宮の西側にある宮崎県護国神社。 | |
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| 旬の話題−季節の景色・イベントなど |
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宮崎観光情報 「宮崎あっち、こっち」 TOPページ 宮崎の風光明媚な観光名所や歴史スポット、ちょっと した穴場まで、宮崎を「あっち、こっち」ご紹介します。 随時追加更新中。 |
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「霧島」 TOPページ 国立公園 霧島山(霧島連山)と周辺の観光・歴史 スポットをご紹介します。 現在、高千穂峰ほか25ページ掲載 随時追加更新中 |
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「大淀川の草花」 TOPページ いつもの散歩道、宮崎市内・大淀川の堤防・河川敷で 出合った草花や雑草達をご紹介しています。 随時追加更新中。 |

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