「平和の塔」について 平和の塔


 

まず最初にお断りしておきます。
これから述べることは、あくまでも私個人の考えと不十分な知識の一部によるものであり、決して
「平和の塔」の真実を(そう呼ばれるものがあればの話ですが)断定するものではありません。
また私は、無宗教であり、政治・思想的にも、限定されたベクトルは、意識的に持たないようにして
います。ゆえに私はどのような思想・信条をも否定はしませんし、特定の団体・個人を攻撃する気は
毛頭ありません。自分にない考え方に出会った時は、まず相手の立場に立ったつもりになって、理解
しようとする姿勢を持とうと心がけているつもりです。

 
 

「平和の塔」は昭和13年に構想が発表され、2年後の昭和15年に完成しました。
現在私たちはこの塔のことを「へいわのとう」と呼んでいますが、造られた当時は八紘之基柱(あめつちのもとはしら)
、通称『八紘一宇の塔』(はっこういちうのとう)と呼ばれていました。

 「皇国日本」の戦争への流れの中で、『古事記』『日本書紀』で天皇の初代とされる神武天皇即位から数えて2,600年に
あたる昭和15年に、国民意思の統合の為に一大祭典を行おうという動きは昭和8年(1933)年頃からはじまり、昭和10年
岡田啓介内閣に紀元2,600年祝典準備委員会が設置され、昭和12年には財団法人紀元2,600年奉祝会が設立されました。
【皇国】
天皇が統治する国の意。わが国の旧称。すめらみくに。
【皇国史観】
国家神道に基づき、日本歴史を万世一系の現人神(あらひとがみ)である天皇が永遠に君臨する万邦無比の神国の歴史
として描く歴史観。十五年戦争期に正統的歴史観として支配的地位を占め、国民の統合・動員に大きな役割を演じた。
【十五年戦争】
1931年(昭和6)の柳条湖事件から45年の降伏まで、日本が15年にわたって行った一連の戦争、すなわち満州事変・
日中戦争・太平洋戦争の総称。
(広辞苑より)

この会で、奈良県の橿原神宮などの整備や万国博覧会などの準備が進められましたが、その一環として宮崎県では、
奉祝祭事業として政府の援助の基に36万円を投じ、地元の寄付金38,000円を加えて宮崎神宮神域拡張整備、および
参道改修、徴古館の改築、等がありました。その他の主な事業として、神社祭典、遠祖の慰霊祭、神武天皇聖跡保存顕彰
(皇宮屋の整備等)、上代日向研究所の設立、そして、八紘之基柱の建設がありました。
のちに八紘台と呼ばれるようになった台地にある八紘之基柱は、宮崎神宮の西北に位置し、神武天皇が東征するまでの
皇居としたと伝えられる皇宮屋(こぐや)の北方の丘に造られることになりました。
 
皇宮屋・皇宮神社   石碑・皇軍発祥の地
皇宮屋 / 皇宮神社 「皇軍発祥の地」の石碑
 
八紘之基柱建設の提唱者は、当時の宮崎県知事 相川勝六です。
 建設の趣旨は、神武天皇が橿原神宮で即位した時の勅語であるとされる「八紘を掩いて宇と成さんことまたよからずや」
(出典 日本書紀)という建国の理想を、神武天皇の東征までに日向の地で培かわれたものとして、それを実際に表現する
ことにあったといいます。どのような構造にするか、誰に依頼するか、毎日新聞社は懸賞募集によって決めようと提案しまし
たが、「この仕事をやることは将来芸術院会員になるよりも誇らしいことです。報酬は一文もいらないから、是非私にやらせ
て下さい」と熱心に申し入れた新進の彫刻家 日名子実三に決定しました。
 日名子は、「一、二か月日向の地にブラリと遊び、日向の山川風土にひたり、そこから自然に湧き出るイメージによってし
てもらいたい」という知事の示唆を受けて各地を巡ったようですが、最終的には知事の「御幣を具現化したものはどうでしょう」
という言葉で御幣を四方からみたモデルを日名子が作成しました。(『宮崎県政外史』)
 
「前長官(相川勝六知事)の時、八紘之基柱のお話を受けた時、『輝く二千六百年に当り、多くの彫刻家の中から選ば
れた事に感激し、これは天与の使命である。一億の力によつて一番よい力を私に与えられたのである。』と感じました。
そこで神の御信頼に対して報ひ奉らん事を思ひ、宮崎神宮に詣うで神助を祈りました。其の時に御幣を拝した折、何
か建設的なインスピレーションを感じました。御幣のみでは建築的に出来ませぬから、五瀬命で楯を建てて男叫びな
されたことを思ひ、楯と御幣の形を併せ、しかも葦牙(あしかび)の如萌え騰(あぐ)る感じを表はしたのです。」
                    「体験を語る」 日名子実三  宮崎高女校友会誌「斯華(このはな)」41号に寄稿


 昭和14年(1939)5月20日に起工し、翌15年11月25日に完成し、竣工式が行われました。なおこの日は高松宮を迎え、
午前10時から宮崎神宮拡張整備工事竣工奉献式が行われ、つづいて午後1時10分から八紘之基柱竣工式、6時からは
秩父宮の御染筆奉案式が行われました。この秩父宮の御染筆は基柱の厳室内にある校倉造りの聖庫におさめられ、基柱
の御神体とされました。基柱の高さは礎石から120尺(約40m)で正面には秩父宮殿下の御染筆を拡大した「八紘之一宇」
の文字が刻まれました。
【八紘一宇】
(宇は屋根の意)世界を一つの家にすること。太平洋戦争期、わが国の海外進出を正当化するために用いられた標語。
日本書紀の「兼六合以開都、掩八紘而為宇」に基づく。(広辞苑より)

当時、思想的指導者の立場にあった、国柱会の田中智学による造語。宗教家・田中智学の究極の目的は世界を仏教化し
法華経に帰依させることによって「平和を実現する」ことにあったようですが、歴史的な背景から、軍国主義・全体主義と
結びつけて否定的な評価がされることが多いというのが実情です。
この八紘一宇の精神は日中戦争から太平洋戦争へと拡大していく時代に、大東亜共栄圏を理想とする大日本帝国の東
アジア侵略の大義名分、そして国民の統合・動員の為のスローガンとして利用されました。


「八紘一宇の塔」の基柱四隅には民族の結束と向上をあらわす篝火台がおかれ、その下四隅には神霊が武人・工人・
農人・漁人として仮に姿をあらわした四魂の胸像を配しました。(荒御魂・奇御魂・幸御魂・和御魂)
正面厳室の入口は西都原古墳の石室をかたどり、三種の神器と榊を透かし彫りにした欄干の下に、神武天皇が美々津
を出発する模様を浮き彫りにしてあります。その浮き彫りの周辺には、天地創造から神武天皇即位までの記紀の記述に
沿った絵物語風の浮き彫りにした二枚の銅扉が設けられましたが、その銅は、県下の小学生が集めた銅屑や当時の一銭
銅貨を徴収し溶かして作成したものであったといいます。
 
和御魂(にぎみたま)   幸御魂(さちみたま)   奇御魂(くしみたま)   荒御魂(あらみたま)
和御魂(にぎみたま)
工人を象徴
幸御魂(さちみたま)
農耕人を象徴
奇御魂(くしみたま)
漁人を象徴
荒御魂(あらみたま)
武人を象徴

 
高さ6m、信楽焼で作られた4体の陶像からは尋常ではないオーラを感じます。彫刻家・日名子実三の渾身の作であり、
 代表作と呼ばれてもおかしくない位の素晴らしい出来です。この4体の陶像を配した「平和の塔」を純粋に芸術作品として
 評価するべきだという意見もあります、しかし、はたして作者である日名子氏自身もそう望んでいたでしょうか・・。
 日名子氏と設計施工監督を受け持った南省吾氏(日名子と臼杵中同期)は、戦後この塔について語ることはなかったとい
 います。

 
厳室扉の欄干   銅製の厳室扉
三種の神器と、榊の透かし彫りの欄干 東征の様子を浮き彫りにした銅扉

使用した石材は「三万立方尺」と報告されていますが、礎石に使用された1789個の石(ほとんどの石に寄贈主の名が
刻まれています)は、個人から収集せず、宮崎県の各市町村から一個ずつ献石されたのをはじめ、国内各府県・朝鮮半島
・台湾・満州(中国東北部)・ドイツ・ペルー、中国大陸に出征中の各部隊などの各団体から献石されたことになっています。
当時の宮崎県県知事相川勝六の友人であった陸軍軍人の好意によって自然に集まったものだとも言われていましたが、
しかし、1999年7月に放送された、テレビ宮崎制作のドキュメンタリー番組「石の証言 〜平和の塔の真実〜」の取材班が
発見した文書によると、相川知事が当時の陸軍大臣、板垣征四郎氏に献石への協力を求めた事実があったことが分かり
ました。陸軍はこれを受けて構想発表から約半年後の昭和14年7月末に在満在支各軍に対して「石材寄贈については各
部隊毎に各2個を標準とし、1個は軍又は部隊司令部所在地付近のもの、1個はなるべく第一線付近のものとす」 「第一線
においてはなるべく皇威の及べる地極限点付近のもの。遅くとも本年11月末までに送付すること」という通達を出していまし
た。そしてこの通達により、まるで手柄を争うかのように、中国全土の最前線部隊から石が送られてきたといいます。
 
     
 
 左から2番目、麒麟の浮き彫りが施された石。「南京日本居留民会」から送ってきたもの。明時代の貴人の
 建造物に使われていたものといわれています。
 左から3番目、唐草模様が彫られた石。「中支志賀中山隊」が送ってきたもの。「旧・上海市政府庁舎」入り
 口アーチの一部。
 礎石のルーツ調査 : 「平和の塔」の史実を考える会
 

こうやって造られた「八紘一宇の塔」。総工費は67万円と報告されていますが、県費は使用せず全て県内外の篤志家から
寄せられた100万円余りの寄付金でまかなわれました。建設工事に要した労働力の延べ人数は6万人と報告されています
が、その多くは、学校隊をはじめとする祖国振興隊などの勤労奉仕であったようです。 しかし昭和20年8月15日に敗戦が
決定すると、戦争責任追及から逃れる為にいち早く軍国主義の象徴「八紘一宇の塔」から八紘一宇の文字が削られます。
アメリカ進駐軍の撤去命令によって、軍国主義と国家主義を連想させる「八紘一宇」の文字と、四隅に配置されている塑像
のうち、「武」を象徴する「荒御魂像」が取り除かれた、という説もありますが、進駐軍の命令であるならば塔そのものを壊
させるほうが自然ではないでしょうか。まして進駐軍が塑像の一体だけを区別し、「八紘一宇」の文字だけを消すように命令
するというのは考え難いと思われます。やはり、県当局による責任回避からの自発的撤去と考えるほうが自然です。
(あくまで個人的見解です。また当時の県当局を糾弾しようとする意図のものではありません。ある意味で当然の行動だと
さえ思います。ただ、事実を曲げて後世に伝えるのはいかがなものかと思いますし、潔くない気がします。)

 
 
 『県政八十年史
 ・・・1946年1月、駐留米軍副隊長マスマン少佐の「塔に禁制の『八紘一宇』の文字があり背面に
   不穏当な碑文がある。文字や碑文を平和的なものにし武人像を取り除いて平和的な神像に
   替えるなら良いのではないか」と言ったことなどから取り除かれ誰いうとなく「平和台」・「平和
   の塔」と呼ぶようになった・・・・・
 
 『宮崎市史』(昭和39年同市刊)
 ・・・終戦直後進駐してきた連合軍の感情にさしさわりがあってはならないという心づかいから、碑文
  をはずし武人像を打ちくだいて取り除いた・・・・・
 
 毎日新聞「ドキュメント塔」(昭和45年)の証言者(当時県庶務課長兼官房主事)
 ・・・「終戦後武人像について命令は米軍からも知事からも出ていない」・・・・・

 

以上のような経緯で、その姿と呼び名を変えた「平和の塔」でしたが、昭和39年9月に平和台公園が東京オリンピックの
国内聖火リレーの起点の一つに選ばれると、再びその姿を表に現すこととなります。
昭和32年4月9日に都市公園の決定をうけて公園整備が進むにつれ、37年10月5日に「荒御魂」像が、40年1月31日
には当時の県観光協会会長、岩切章太郎氏の強い要請と協賛により題字「八紘一宇」が石版に刻記され復元されました。
岩切氏の真意がどこにあったのか今となっては知る由もありませんが、敗戦からわずか19年後の出来事です。
 
 
 
オリンピック終了直後、それも官庁御用納めぎりぎりの十二月二十六日に岩切章太郎県観光協会長(当時)から
 、「八紘一宇」の文字復元申請書が県知事に提出された。県当局はこの申請を新年早々の八日に許可し直ちに
 工事を始めた。年末年始に県民に気づかれないためではないかと思われてもしかたがない。余りにも早い即決で
 あった。 「武人像」と「八紘一宇」の文字の復元で勢いに乗り、次には、「天孫降臨」の神話にふさわし名前という
 ことで、「平和台」を戦前の「八紘台」に改名するという請願が県議会に提出された。これは県民の知るところとなり
 反対運動がおこり阻止された。また、「由来記」は書き替えられて黒木知事の新しいものになった。
 
「石の証言」 「平和の塔」の史実を考える会編 より抜粋
 
 しかし、この「八紘一宇」の文字も終戦後占領軍によって削り取られることになるが、昭和四十年1月三十一日、
 県観光協会会長岩切章太郎氏の協賛によりこの題字は、石版に刻記され、再び陽の目を見ることになる。当時
 、県観光協会の事務局長を務めていた地村忠志氏が直接の担当者だった。
 「昭和三十九年の十二月ごろのある日、会長(岩切章太郎氏)から突然連絡があり、自宅へ来るように、と呼ばれ
 、行ってみると 『君、平和の塔と八紘一宇の文字は、芸術作品だよ。元の姿に復元するようにして、県知事宛に
 文字復元申請書を作成して出すようにしなさい』と言われた。私はそのように文案を作成し提出したところ、同年
 十二月二十六日、八紘一宇文字の復元許可がくだり、取り付けは、翌年一月三十一日武人像とともに夜間のうち
 に行われました
が、問題はその後でした。早速、革新系や労働組合の幹部が六、七人事務所にやって来るなり、
 大声で『なぜ八紘一宇の文字を復元したのか。時代逆行もはなはだしい。すぐ撤去すべきだ』と怒鳴りながら、私
 に迫ってきました。私は動ぜず、皆さんの矢面に立つ思いで、落ち着き払い、こう言いました。『あの平和の塔と、
 撤去されていた八紘一宇の文字や武人像は、立派な芸術作品ですよ。元に戻すのが当然でしょう。それでなけれ
 ば、日名子実三という製作者に対して申し訳ない。だから復元したんです』。・・・・・・・
 
「ある塔の物語」 三又たかし著 より抜粋
 
 
 
聖火リレー起点   聖火台   左、
平和の塔の階段に埋め込まれているレリーフ。
東京オリンピック国内聖火リレーの起点を示し
ています。
 
右、
聖火台「神々の降臨」
全高2m40cm 口径87cm
はにわ館入り口に設置されています。
 
 
 
 
塔のある広場入り口横に建てられている「手水舎」(てみずや / ちょうずや / おみずや)
 
 「手水舎」とは、神社等神聖なものにお参りする前に、参拝者が手を洗い口をすすいで身を清め穢れ
 を落とす為の水盤が置かれている建物。
 この手水舎も日名子実三氏による意匠。水盤は日向市美々津産の1枚岩を加工したものです。水盤
 の前面には相川勝六知事(当時)の筆で「美々津」と彫られています。(美々津は神武天皇御東征の出発地)
 
 この手水舎の存在こそが、塔の本来の目的と存在の本質を物語っているようです。

 
 
こうして、どこにも「平和の塔」と記されていない「八紘一宇の塔」を、それ以来宮崎人は「へいわのとう」と呼び続けること
になります。戦争を知らない世代の人間たちが、八紘一宇の文字が持つ複数の意味と歴史を知らされないまま・・・・。

中国・朝鮮・台湾 等から奪い取ってきた多数の石材を礎石に用い、皇国日本のスローガンに使われた八紘一宇を
再度掲げてしまった「平和の塔」。
このところの、アジア諸国における対日感情の悪化を思うと、もしこの塔の存在がクローズアップされてしまったら、
宮崎にどのような影響をもたらすことになるのか・・、考えるとぞっとしてしまいます。
「平和の塔」が宮崎の平和に混乱を起こさぬよう祈るばかりです。
 
参考資料
 「石の証言」 「平和の塔」の史実を考える会編
 「ある塔の物語」 三又たかし著
 ドキュメンタリー番組「石の証言 〜平和の塔の真実〜」 テレビ宮崎製作

 
 
 

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